(211)2005.1.17

$ 物音 $

 夕方、とあるアパートの一室に男と女がいた。
 2人の仲はまだ恋人同士というものではない。とある大学のサー
クルのメンバー同士だった。
 そこは女の住んでいる部屋で、男は別の用事にかこつけてようや
くあがりこむことが出来たという程度の仲だった。
 しかし、用事があったとはいえ男を部屋に招き入れることを許せ
る程の仲だとも言える。
 男はここでいっきに女との距離を縮めたいと思っていた。

 そして日が暮れてた。
 用も済んでしまって、結局男は何も出来ずに帰り支度を始めた。
 大方予想はしていたのだが2人きりの空気に違和感がないほど親
密ではなく、どこか歯車がかみ合わないというか、多少なりとも女
の方が警戒の念を抱いているのが分かった。
 これ以上の深追いはやめた方が無難だという冷静な判断を男は下
 した。そのとき、

 ドンドン

 外から窓を叩く音が聞こえた。
 強い音ではなかったが確かに聞こえた。聞き間違いではない。 
 その窓の向こう側は墓地だ。

 ドンドン ドンドンドン

 また叩かれた。
 風が起こす物音ではない確かなリズムと力を持っている。
 2人は互いの顔を見合わせた。
 男の方は帰ろうとして立ち上がりかけた時にその音が鳴ったも
のだから中腰のまま固まっている。なんとなく間抜けな格好では
あるのだがそれだけに恐怖の現実感が証明されている形でもある。

「ううううううううう、ああああああああああああ」

 続いてうめき声が聞こえてきた。
 ひぃーと声にならない悲鳴を上げて女が男にしがみついた。
 女は墓地横のアパートに住みはじめて2年は経っていた。だか
ら今となっては墓地の横というロケーションにも慣れているつも
りだった。はじめのうちは友人がふざけて似たようなことをし、
驚かされたこともあった。しかし、今起こっている現象は有無を
言わせぬ妖気と圧迫感がある。恐怖に体がとらわれてガクガク震
え冷たい汗でびっしょりになっている。
 毎夜ひそかに恐れていた事態が今おとずれたのだ。

 バンバンバンバン ガリガリガリガリ

 今度は大きく両手で窓を叩きはじめた。狂ったように強く、爪
で引っかいたりもしている。
 同時に、磨りガラスの向こうの暗闇の中から人の影が浮かび上
がってきた。
 2階の窓の向こうからだ。
 女は恐怖のあまり卒倒してしまった。

 男はすくっと立ち上がりそちらの方に歩いてゆくと窓をガラッ
と開けてこう言った。

「おい、やりすぎだぞ」

 そこにはハシゴを立てかけて今しがたまで窓をたたいていた男
の後輩がいた。
 2人は共謀していたのだ。シナリオは恐怖に怯える彼女を男が
助けるというものだった。しかし、あまりに効果がありすぎて肝
心の彼女の方が気を失ってしまったのだ。
 後輩は泣いたような笑ったような困ったような複雑な顔で頭を
かいている。
「しかたねえな」
 男は女を抱き起こそうとふり返って驚いた。
 女の表情が普通ではない。腕にしがみついているときには近す
ぎてよく見えなかったのだが数歩離れて見てみると、その顔は恐
怖にゆがめられ口と目を大きく開けたまま動かなくなっていた。
 あまりにも異常な人相である。
 男は急に怖くなり女に駆け寄った。
「おい、しっかりしろ」
 女はそのまま息絶えていた。

「なんてこった」
 今度はとがめるように後輩の方にふり返った。すると、

 ゲラゲラゲラ

 後輩が狂ったように笑っている。こちらも普通ではない。
 目の焦点は合わず、口からはだらしなくヨダレがたれている。

「ヤッター、ヤッタッター」

 気が触れたとしか思えない後輩は奇声を上げて大きくのけぞり下
に落ちてしまった。

「お、おい」

 あわてて駆け寄ったが、驚くべきことにそこには後輩の姿もハシ
ゴも消えていた。

 翌日、その後輩は自宅で首をつって死んでいるのが発見された。
 遺書には「道連れにしてやる」と書いてあった。
 その後まもなく男も発狂して死んだ。


(212)2005.1.22

$ 暗示 $

 男は決して他人と連れ立って帰ることは無い。残業が長引いて一
緒に仕事をしている同僚と2人きりになった場合でも、男はわざと
自分専用の用事を作って帰る時間をズラす。そういう性格なのだ。
 その男が今日は他の社員数人と電車に乗って帰っている。
「変わったこともあるもんだ」と感じた同社員は、しかし、1人も
いなかった。
 それほどまでにこの男の印象は薄かったのだ。
 人との接触を制御し、集団の中にいながら誰の記憶にも残らない
ような生き方。
 これは才能である。
 ある人種にとって必須の才能だ。
 男はそのまま静かに電車を降りた。

 白と赤のイメージが鮮烈でグロテスクだった。
 全裸の女がうごめいている。薄暗い閉鎖された空間だ。狭いドー
ム上の部屋に白くブヨブヨした物体が床から天井まで詰まっている。
その中で僅かに空いた隙間に女が埋まっていた。
 白い肌と白いブヨブヨの物体。そして、さらにその隙間を透明と
赤の混じった液体が浸している。
 本来は光の差すはずのない物理的条件であるが、男はイメージと
してそれらを把握することができた。
 このブヨブヨした物体はなんだろう。白子に似ているが見たこと
のない素材だ。
 思考の焦点が合わずにぼんやりとその光景を眺めていると、ふい
に女と目があった。
 ニタリ、と女は笑みを浮かべた。黒く。
「これは脳ミソだ」

 男は目を覚ました。
 布団と目覚まし時計、見慣れた薄暗い部屋。自分の家。
「夢だったのか」
 あの異様な光景がまだ頭に焼き付いている。
 しかし、男にはあのおぞましい夢を見た原因が分かっていた。
 あれは昨日殺した女だ。
 女が帰宅する時間を見計らってマンションの非常階段から忍び込
み、犯して、殺した。
 帰宅途中に横道にそれて犯行を行い再び帰路に着くまで、その間
たったの10数分。
 電車1本分乗り遅れる程度の時間で片付けた。
 襲われた女は血を流しながら白い布団の上で息絶えた。
 その時の状態が見る夢に影響を与えたのだろう。
「俺も歳か」
 殺した獲物に脅えるような夢を見たということについて、男は苛
立った。

 男は宗教的概念、倫理的概念はもとより超自然現象の類について
一切の否定主義者であった。そして、冷静でもあった。
 たとえば、幽霊はいると思うか、と聞かれた場合とりあえず肯定
する。ただし、世間一般で言うところの幽霊はいると思うか、と問
われれば否と答える。
 男にとって、幽霊とは生きている人間の頭の中に存在するものな
のだ。想像の産物なのだ。しかし、想像の産物とはいえ注意深い自
覚が無ければそれは当人にとって現実に存在するものと同等の効果
を持ち、その精神の働きによって肉体は影響を受けるであろうこと
も理解している。
 たとえば、思い込むことによって何でもない物の影が人型や顔に
見えるような錯覚を起こすし、呪われたと思うことによって体調を
崩したり、気に病むことによって日常生活でも慢性的に集中力を欠
き、その結果普段は起こりえないようなミスや事故にみまわれたり
もするだろう。
 その事実をもってして幽霊や呪いが存在すると明言しても結果的
につじつまは合致する。
 だから男は人に尋ねられた場合はとりあえずその存在を肯定する
のだ。
 しかしながら、個人的な事情にそういった非科学的なものの存在
は決して受け付けない。また理論的な仕組みを熟知しているので一
切の影響を受けることもない確信がある。

 だから人を殺せる。

 今まで30人殺した。
 学生の間に殺しを覚え10人、働き出してからは年2人のペース
で殺した。完全な犯行を遂行するためには約半年の準備期間が必要
だった。身体も鍛えていた。細身だか十分以上にパワーを秘めた筋
肉と骨格を備えている。
 男の人生は充実していた。
 病的な性格を除けば一流の人材だった。ただ、嗜好が殺しに偏っ
ているだけだ。
 男は何事もなかったかのように顔を洗い会社に出かけた。

 その夜、また同じ夢を見た。
 今度はよりリアルで生暖かい体温すら感じた。
 だが昨日よりは平静な精神状態であった。ただ、うなされはしな
かったとはいえ2度も同じ夢を見たことに対して男は苛立ちを覚え
た。
 男は手だけ伸ばして目覚まし時計に触れた。
 電子音が午前2時を告げた。
 まだ真夜中だ。
 実は、男は夢のせいで飛び起きたのではない。
 物音を聞いて起きたのだ。
 人の気配もした。
 誰だ。
 男は一瞬自分の犯行の手口を思い返してみた。
 しかし、いったい何者が。

 ”あなた……”
 女の声がした。どこから聞こえたのか分からない。辺りを見回し
たが何者も忍び隠れることのできない殺風景な部屋だ。
 ”私もまさかと思ったわ”
 一瞬気のせいだと思い込もうとしたが今度は紛れも無く言葉が耳
に入ってきた。音でも声でもなく言葉だ。
 ”あなたに襲われたとき”どこだ。
 男は素早く周囲に気を配った。普段の目立たない静かな物腰とは
うってかわって、身のこなしも目の鋭さも上等の殺人鬼と化してい
た。
 ”怖かったわ”まただ。完全になめられている。しかし、そうと
分かっても男は冷静さを崩さなかった。俺なら絶対にこんなリスク
と獲物に付け入る隙を与えるような真似はしない。愚かな女め。と
心の中で嘲笑すらした。しかし、
 ”痛かったわ”女? そういえば先日殺した女の声にそっくりだ。
嫌な汗が湧いてきた。何かが内側から蝕むような感覚。これが恐怖
あるいは罪悪感というものなのか。
 ”あなたはミスをしたわ、急所を外したのよ”なんだって。いや、
嘘に決まっている。俺を動揺させようとしても無駄だ。
 ”だから私はあれから長い時間死ねなかった”突然、頭痛と酷い
眩暈が男を襲った。暗示にかかってしまったとでもいうのか。男は
抑えきれない焦りを覚えた。
 ”人間として耐え難い死の恐怖と激痛と絶望に苛まれたの”吐き
気がし、胸が苦しくなった。バカな。見えない敵の声のみに操られ
て身体にダメージを受けているというのか。

 ”だからこんなことが出来るようになったの”

 グキュッ

 突如、男の眼球が飛び出した。

 そして、その奥から手がはみ出した。
 頭蓋につかえて指だけが不気味に蠢いている。
 その指が一度ひっこんで、こんどは白いブヨブヨしたものを内側
から押し出し始めた。血に染まった眼窩から溢れ出すものはグズグ
ズに潰された脳みそだ。
 男は自らの黒い血だまりに倒れた。
 今度は全身の皮膚が波立ち内側からザワザワと押し上げられたか
と思うと次の瞬間、無数の手が肉体を引き裂き外に現れた。
 各々の手は適当な大きさに男を分解して思い思いの方向へ肉片を
投げ飛ばした。そして、完全にバラバラになるとその奇怪な手は気
が済んだかのように消えていった。
 恐るべきことに、殺人鬼は脳を破壊されたというのに、その解体
作業が完全に終了するまで絶命できずに血の涙を流しながら苦しみ
ぬいたのだった。
 絶命させてもらえなかったのだろう。
 男の肉片は全部で30個に千切り飛ばされていた。


(213)2005.1.29

$ 窓の外 $

 ある日、男が友人の家に遊びに行ったこときのこと、窓の外から
こちらをのぞいている女性がいるのに気づいた。
 陰気で無表情な顔でゆらゆらゆれながらこちらをのぞいている。
 男は友人に不振人物がいることを告げようとしたのだが、ゾッと
して恐怖に凍りついた。
 その友人の家というのはマンションの4階なのだ。
 女がのぞいてる窓の外は通路もベランダもない。
 男は居ても立ってもいられなくなり逃げるようにその友人の部屋
を後にした。
 男は友人に理由を告げなかった。
 何かの錯覚か間違いかもしれないし、もしそうだった場合、自分
の気がおかしくなったと周りに吹聴されても困るからだ。そしてな
により、もし本当にそれが幽霊だったとしても、取り殺されるなら
1人で取り殺されてもらいたいと考えたからだ。
 が、事態は悪い方向に進んだ。
 自宅に帰って誰かの視線を感じ、その先を追ってゆくと、先刻と
同じ、窓の外からこちらをのぞいている女性の幽霊がいるではない
か。男は愕然とした。
「くそぉ。憑いてきやがった。」
 おまけに、今度は薄ら笑いを浮かべておいでおいでしている。
 男の家はマンションの6階だった。
 男は鍵とカーテンをしめて布団にもぐった。
「「おいでおいで」している霊はヤバいんだ。あちらの世界に誘っ
ているということなんだ。反対に「さようならさようなら」してい
る霊なら自分から去ってゆく霊だから良い霊なんだ。ちくしょう、
ちくしょう」
 男は恐怖に震えながら眠りについた。

 その真夜中。
 ふと妙な感覚にとらわれて目を覚ました。
 気がつくと窓もカーテンも開け放たれて、あの女性がこちらを見
て笑っている。
 が、今度は手をふって
「さようならさようなら」している。

「なんだ脅かしやがって。」

 と思ったのもわずか一瞬のこと。
 なぜなら、今部屋の中にいるのが女性の幽霊で、放り出されてマ
ンションの6階窓の外いるのが男の方だったのだ。


(214)2005.2.6

$ 電車勤め $

 トン

 帰宅ラッシュで人がごった返している駅のホームで誰かと軽くぶ
つかった。
 さしあたって気に留める出来事ではない。誰でもそうだ。むしろ
誰かとぶつからずに歩くことのほうが難しい。
 しかし、事情は急変した。最悪の方向に。
 突然、強烈な金属音がホームに鳴り響いた。
 同時に大勢のざわめきと悲鳴。
 緊急停止した列車。
 男が振り向くと、音のした付近に人が集まり、ただでさえ大勢の
人間があふれている駅のホームの中でより一層密集した人だかり
を形成していた。
「人が落ちたぞ」
 なんだ自殺か、こんなラッシュ時に迷惑な話だ。男は人より冷静
に頭の中でつぶやいた。いや、正確には冷静というよりも仕事で疲
れ切った頭が感情の抑揚を鈍化させていたというべきである。その
擦り切れた頭脳で、当分電車は動かないはずだからいったいどうや
って時間を潰そうか、とか、なんとか別のルートで帰ろうか、など
といった考えをめんどくさそうにめぐらせていた。
 その時、
「自殺じゃないわよ。誰かにぶつかられて落ちたの。私見たわ」
 甲高い声がひときわ大きく響き、新たなざわめきを生んだ。
「背広姿の男だったわ。向こうのほうに歩いていったわ」
 女の指差す方向に男はいた。
 バカな。
 男は一瞬わが身を疑った。そういえばさっき誰かとぶつかった。
確かにそのすぐ後にブレーキの音が聞こえもした。
 しかし、まさか自分ではあるまい。こちら側に歩いてきた背広姿
の男など自分の他にもたくさんいる。そんな偶然など認められるは
ずがない。
 しかし、男は恐ろしくなり、足早にその場を去った。
 一刻も早くその場を立ち去るべくタクシーに乗って帰った。
 誰に引き止められはしないかとビクビクしながら始終足早に歩い
た。

 翌日、男はいつものように電車に乗って会社に出かけた。
 まだ薄暗い灰色の空が男を出迎えた。
 昨日の事件が巻き起こした喧騒が嘘のように無口な一日の幕開け
である。が、
「ちょっと、すみませんが」
 目的の駅に到着し、改札に向かって歩いている途中に2人組の男
に声を掛けられた。そこは昨日不幸な事故があった駅でもある。
「我々こういうものですが」
 1人が警察手帳を見せて話し始めた。昨日の事件の一部始終を駅
のホームに備え付けられているビデオカメラが捉えていたというの
だ。
 男たちの目は厳しかった。
「う、嘘でしょ。ね。嘘ですよね」
 自分の声が嘘みたいに震えているなと、男は思った。声が震える
とますます疑われる。なんとかしなければ、震えが止まらない。助
けてくれ。
「ちょっと署の方までご同行願います」
 急速に襲う眩暈と激しい動悸。

 冬だというのに大量の汗をかいていた。嫌な汗だった。
 男は布団の中で大きくため息をついた。
 夢だったのだ。
 考えてみれば刑事がドラマのように警察手帳を身分証明のために
使用することは実際には無いというし、あの駅にはビデオカメラも
設置されていないはずだった。多分。
 いずれにしても夢でよかった。
 ついでに昨日の駅の事件も夢だったらいいのに、と思った。
 とてつもなく憂鬱な朝だ。
 会社を休みたいところだが、余計なことをして怪しまれるのを恐
れ、気力を振り絞って会社に出かけた。昨日とは大きく違う色合い
の背広とネクタイで。

 男はいつものように出社したものの、駅のホームや電車、道端で
までせわしなく辺りを見回しながらある物を探し続けた。
 ビデオカメラがあったかもしれないという考えが、後から大きく
膨らんで男の心を埋め尽くし支配してしまったのだ。
 男は考えた。
 駅に限らずその時間帯に挙動不審な人物が近くをうろついていな
かったかをカメラが捉えていたかもしれない。警察はそういった情
報まで押さえようとするだろう。
 昨夜の自分の行動には自信が無かった。そういえば家に着くまで
心ここにあらずといった感じだったはずだ。そういった様子を偶然
なにかの防犯カメラなどに録られていたかもしれない。
 嫌だ。それは困る。
 そして、男は目的の駅に到着したとき愕然とした。
 あった。
 ビデオカメラがあったのだ。ちょうど事故のあった付近の天井に。
 ああ、何てことだ。
 その時、

「見つけたぞ」

 不意に声を掛けられた。
 ギクリとして男はふり返った。
 しかし、辺りには誰もいなかった。

 ぎゅっ

 唐突に、足首をつかまれた。
 目を下ろすとホームの下から血みどろの女が上半身をだけ這い出
して男の足をつかんでいた。
 男はそのまま線路の方に引きずり込まれ、悲鳴をあげる前に通り
かかった電車で叩き潰された。


(215)2005.2.11

$ 悪霊 $

 どうにも手に負えない悪霊がいた。
 そいつは次々に人を殺めた。
 何人もの祈祷師や神主、坊主、霊能力者がお払いをしようとした
が失敗し、返り討ちにあい狂い死にした。
 誰もがさじを投げた。その時、1人の少女が現れた。
 今までの誰とも違う慈愛と神々しさを備えていた。
「あなたの苦しみは分かります」
 それは教え諭すという風ではなく、母親が我が子を胸に抱き優し
く子守唄を唄って聞かせるようであった。
 少女は決して無理やりに悪霊を恐ろしく暗い冥界追い返すのでは
なく、在るべき場所へ導く女神のように悪霊に話しかけ、また話を
聞いた。
 そのかいあって、悪霊は大人しくなり、できることなら成仏する
と少女に誓った。
 奇跡であった。
 少女は悪霊のそばに寄り、優しく話しかけた。
 援護に駆けつけた周りの霊能力者たちが止めるのも、当然の事な
がら聞かずに悪霊の言うことを信じた。誰もがしなかったことを。

「そう、本当は貴方もそれを望んでいるのね。苦しんでいたのね。
では最後に告白しなさい。貴方は何のためにこの世に縛られて成仏
できなかったのか。無論、それが遺恨であったとしてもかまいませ
ん。正直に話しさえすれば必ず成仏できるでしょう」
 悪霊は答えた。
「人を殺すのが大好きなんだ」
 次の刹那、血煙が舞った。
 千切れ飛んだ少女の首は遥か後方にいる仲間の身体を叩き潰した。
 その後全員が皆殺しにされるまで1分もかからなかった。

「なんだ。正直に答えても成仏できないじゃないか」
 血肉に埋もれてもなお奇跡の笑顔を浮かべたまま息絶えている少
女の生首に向かって悪霊は毒を吐き、次の犠牲者を求めて彷徨い続
けた。


(216)2005.2.20

$ 悪徳教祖 $

 ドンドンドンドン ガンガンガンガン
 外から家の壁を叩く複数の音が聞こえる。

 夜寝ている時に金縛りにあい、異常な気配を感じた男は、心の中
で「なんまんだぶなんまんだぶ」と唱えた。
「普段から信心深い生活をしていない者の念仏など効くものか。」
 という声が聞こえて、結局その男は悪霊に殺されてしまいました。
 だから……

 このお守りを買いなさい。
 などというたぐいの新興宗教の怪談商法がこのごろ流行っている。
 なかでも用意周到なチームは前もってターゲットとなる家の庭に
忍び込み、夜中、窓の外で不気味なうめき声を上げたり、怪音をラ
ジカセで流したりする。
 そして、その新興宗教の罠にはまってしまう者も多いようだ。
 そのことをネットの噂話で知っていた男は、今まさに起こってい
る怪現象に恐れなどしなかった。
「これがあの噂の新興宗教のやつらか」
 腕に自身のある男はひとつこらしめてやろうと威勢良く表に出て
怒鳴った。
 すると案の定、数人の男女が家の壁を叩いている。
 しかし、男はそのまま動くことが出来なかった。
 恐怖にとらわれて足がすくんでしまったのだ。
 どう見ても気の弱そうな数人の男女なのだが、異様に白い肌と白
い服装。確か経帷子(きょうかたびら)と呼ばれるもので、装束は
左前に合わせてある。いわゆる死に装束というものだ。
 その出で立ちも普通ではないのだが、男の身をすくめたのはそれ
以上に男女が発する鬼気とも言える異様な圧力である。頭で理解し
ている理論や勇気を度外視した恐怖感が男の心臓を早鐘のように打
ち鳴らしていた。
 その男女はゆっくりと男の方に歩み寄って来て、時間を掛けてゆ
っくりと周りを囲み始めた。
 男は腰が抜けてしまいその場にへたりこみ助けてくれ助けてくれ
と心の中で念じた。このままでは心臓は破れてしまいそうだ。
 しかし、その亡者どもの進行は止まらずじーっと顔を寄せて男の
首に胸に手を伸ばしてつかんだ。つかまれたところから冷気が流れ
込み体温が奪われ感覚が無くなってゆく。
「もうだめだ」
 そう思ったときである。

「キェーイ!!!」

 どこからともなく起こった裂帛の気合とともに亡者どもが掻き消
えた。体の自由もきき楽になった。
「大丈夫かね」
 ふと見上げると初老の男性が男を見下ろしていた。
 聞くその初老の男性はとあるお寺の住職であるらしい。たまたま
通りかかったところ、悪霊に囲まれている男を発見し追い散らした
との事だった。
 男は泣いて感謝し、その後一も二もなくそのお寺の檀家になった。
奉納金は高かったが気にならなかった。全財産を投げ打った。

「今回もうまくいったな」
 自宅で笑う住職。
 言うまでもなく、あの亡霊はこの住職がよこした悪霊であった。
 その後、男も先の亡霊たちと同じく、見も心も奪われた挙句、新
手の詐欺商法のために殺される運命をたどるのであった。
 住職の不気味な笑い声だけが墓場に囲まれた古寺の中でいつまで
も低く響いた。


(217)2005.3.6

$ 子供 $

 お払いをしてもらったのに1人だけ効果が無かった。

 女友達3人が旅行に行ったときのことである。ある夜、皆が寝静
まった後に見知らぬ子供が部屋の中に入ってきた。おねえちゃんた
ち遊んでよ、1人じゃつまらないよ、としつこくせがんだ。
 どこの迷子なのか知らないが迷惑な話だ。可愛そうだけど旅館の
人を呼び出して追い返してもらった。
 いや、追い返そうとした。内線電話を切って部屋の中を見渡すと
その子供の姿は消えていたのだ。
 旅館の人に今のことを話したが、露骨に嫌な顔をされただけだっ
た。こんな夜中に用も無いのに変な話をして呼び出さないで下さい、
と言いたげな態度だったが、今思えばそれは演技だったのかもしれ
ない。それが出るのをもともと知っていたのではないだろうか。
 その後、自宅にその子供を見たと1人が言った。家の外でじっと
こちらを見ているのを2階の窓から見たという。寝る前にその姿を
見たのだが、気持ち悪いと思ってカーテンを閉めた。その後、夜明
け前に目が覚めた。窓を叩く者がいるのだ。恐ろしくてカーテンを
開ける事は出来なかった。窓を叩く音は朝まで続いた。
 また別の1人は駅のホームで見た。朝早くに反対側のベンチに座
ってじっとこちらを見ていたというのだ。その時はさほど気にせず
会社に出かけたのだが、帰りの電車で反対側のホームに降り立った
ときに恐怖した。
 その子供は朝と変わらぬ位置でベンチに腰かけていたのだ。
 出口に向かうにはその前を通過せねばならない。知らん振りをし
てなるべく足早に通り過ぎた。そのとき。
 グイィイッ
 とスカートを引っ張られた。ひぃっと絞るような悲鳴を上げてそ
ちらを見たら、またしてもその姿は忽然と消えていた。
 そして3人目の娘は夢の中にその子供が現れるという。
 何をしゃべって何をしていたかは朝起きると忘れてしまっている
のだが、とにかくしつこくつきまとわれたという印象だけが深く強
く残っており、大きなストレスとなった。

 3人の娘たちは互いに話し合い、恐ろしくなってお払いをしても
らうことにした。
 色んなつてをめぐって信用できる霊能力者に見てもらった。
 苦心惨憺した結果、その子供の墓を突き止めた。
 旅行で宿泊した宿の近くに有るお墓で、未だ新しい。
 調べたところによると、その子供の両親は離婚しており、別居し
た直後、寂しくなってもう片方の親の元へ行く途中に事故にあい亡
くなったという。
 死んだショックで寂しいという思いだけが強調され、近づいた者
のうち波長の合う人に憑く地縛霊となってしまったのだ。
 3人は手厚く供養しした。
 すると前者の2人はそれ以来その子供を見なくなったが、最後の
娘だけは相変わらず同じような夢を見るという。
「こうなれば、あの墓から霊が家の中に入ってこれないようにして
おきましょうかな。少々お住まいの見栄えを損ないますが、霊が成
仏するまでの一時的なものですから、我慢してください」
 そう言って、法師は玄関や窓、その他外界との通り道だけでなく
壁にも大量のお札を張り付けた。その結果、家の中は奇怪な文字だ
らけの部屋になってしまった。それだけで異様な雰囲気を漂わせい
ていた。
「毎日注意してこれらのお札を観察してください。どこかが剥がれ
かけてきたらそこが霊道です。それが分かったらまた改めて参りま
すので、ご連絡をお願い致します。
 あとくれぐれも注意しておきますが、ご自分の部屋の中には決し
て入れないようにせねばなりません。壁にはお札を貼りましたが、
窓やドアを開け放したままにしていては、そこから回り込んで入っ
てきてしまいます。
 今はまだ霊のほうがためらっており、あなたのそばを付かず離れ
ず距離をとっているようですが、手の届くぐらいの距離まで近づか
れれば、あの世に一緒に連れて行かれます。それを肝に銘じておい
てください。では何卒よろしくお願い申し上げます」
 こう言い残して法師は去っていった。
 その夜。
 万全の対策を打ったかに思えたのだが、その夜、また同じ夢を見
た。
 重度の寝不足のも関わらず夜中に目を覚ました。あれだけの処置
を施しても効果が無かった。
 ピリ
 札の一枚が少し剥がれた。
 ピリリ
 さらに剥がれた。これ以上剥がれてしまってはどうなることか分
からない。娘は慌てて手で押さえた。
 押さえた札の中で何かかうごめくような感触が伝わってきた。
 娘が耐えてしばらくするとその蠕動は治まった。
 ビリ
 また別の札が音を立てた。
 ビリビリビリ
 破れる。そう思った瞬間の娘の行動は早かった。
 部屋の反対側の壁まで、とっさに札を抑えることに間に合った。
少し破れた隙間から何かが触れる感触がし、鳥はだがったった。
 ピリ
 今度は違う部屋だ。
 遮蔽物を無視して伝わってくる音の不思議は、やはり霊験あらた
かな札に込められた法力なのだろうか。
 娘は音のした方に走ってゆき急いで剥がれかけている札を押さえ
た。
 そんな攻防が30分ほど続いた後、急に諦めたかのように、札を
剥がそうとする音は一切しなくなった。
 娘は疲労困憊して部屋に戻り、へたあ、とベッドに倒れこんだ。
すると、

 枕元にいた。

 あの子供が娘の目を覗き込みこういった。
「僕ははじめからこの家の中にいたんだよ。気づいてくれなかった
から寂しかった。だから他の人のに遊びに行ってたんだ。でも、こ
んなにまでして僕を外へやりたくなんだったらしょうがないや。

 一緒に逝こう」


(218)2017.8.24

$ ひきこもり $

 雨戸を閉めようと思い窓を開け、なにげに外を見た。
 私の部屋はアパートの二階なのだが、そこから 20m ほど先にあ
る曲がり角で佇む人の後ろ姿が見えた。
 すでに日が傾き薄暗いので男か女か分かりにくいのだが、白いシ
ャツにグレーのズボン、全体的にダボっとした、身体に対してサイ
ズが大き目な衣服を纏っている。
 うつむいたままじっと動かないので、スマホでも見ているのかと
思ったのだか、それにしてもピクリとも動かない。
 あぁ、よく見ると両腕は垂れ下がっているのでスマホはしていな
いな。

 私も気にせずに窓を閉めてしまえば良かったものを、なぜか気に
なってそのままじっと見続けていた。
 曲がり角の向こう側、進行方向に行ってほしい。そうあるべきだ。
という私の勝手な気持ちに対して、そうならないのが気持ち悪いと
いうか違和感を感じたというのか。
 とにかく一度気になってしまったら、その見知らぬ人物から目を
離せなくなってしまった。

 さっさと動け、歩け、動いて向こうに行ってくれ。

 勝手な苦情を心の中で呟き、勝手にイライラして窓の外を見続け
た。
 そうか、街中を男が歩いているだけで、不審人物がいた、などと
通報されるのはこういうときなのかもしれないな。
 私もすでに曲がり角に立っているだけの人物に対して不審がって
いる。それも、ほんとに勝手な理由にもならない理由で。

 時間にすれば僅か数分、5分も経っていないと思うのだが、私の
方が根負けして窓を閉めた。
 なんて弱い意思なんだと我ながら思うのだが、そもそもがしょう
もない理由だったのでそんなものだろう。
 その日はそのまま寝た。

 翌朝、雨戸を開けるときに外を見た。
 曲がり角には誰もいなかった。
 あたりまえか。

 その日の夜、雨戸を閉めようと窓を開けた。
 いた。同じ服装の人物が立っていた。
 昨日同様ピクリとも動かない。
 もしかして、看板代わりのオブジェなのかな。交通安全か何かの。
 今度、コンビニに行くときにでも確かめよう。
 窓を閉めて寝た。

 それから2、3日は雨戸を閉めっぱなしで開閉はしていない。

 夜、ふと思い出して、コンビニに出かけがてら例の曲がり角を確
認しに行った。
 誰もいなかった。

 念のため部屋に戻ってから雨戸を少し開けて曲がり角の方を見た。
 何が念の為なのか分からないが、何故か気になってしまって。

 いた。

 なんだ。ほんのさっきまでいなかったのに。
 いや、いたというよりあったというべきか。まだ交通安全のオブ
ジェだという可能性は捨てきれないからだ。
 しかし、なぜか今すぐに現場に確認にいく気力が湧いてこなかっ
た。
 今来たばかりの道を舞い戻るのがとても面倒に感じたからだ。
 そっと窓を閉じた。

 翌朝雨戸をあけた。
 同日夜雨戸を閉めようとするついでに窓の外を見る。

 いた。

 いや、ただ立っていただけではない、5 歩ほどこちらに近づいた
位置に立っている。
 後ろ向きなので相変わらず人物像が分からない。
 しかし、不自然すぎるだろう。
 曲がり角に立っている場合は、もしかしたらそいつはストーカー
でその先にある何かを盗み見ているのかもしれない、という可能性
も考えていたのだが、今の位置は明らかに意味を見いだせない。
 以前は曲がり角に少し差し掛かっていたので見えない部分があり、
そこに何かしら交通安全のアイテムが付随しているのかもしれないと
いう可能性も考えていたが、それもない。
 もはやオブジェでもないのは明白だろう。

 白い肌。女か。
 だいぶ華奢に見える。ズボンをはいているがおそらく女性だろう。
 それにしても色白だな。

 バタンッ。

 私は大慌てで雨戸を閉めた。
 色白とかグレーのズボンとかではなく、不自然に色みが無いのだ。
白黒写真のように。
 そして、私は見てしまった。
 ほんのごく僅かだが、白いシャツと首筋の肌の輪郭のあたりが透
けて向こう側、壁の模様が見えていたのだ。
 ズボンは少し色が濃いから分からなかったが恐らく同じように透
けているのではないか。

 あれは人間じゃない。

 地縛霊というやつなのだろうか。
 いや少し動いていたな。
 ちょ、
 ちょっと待て、こちらに近づいていたぞ。

 それから数日間、雨戸は閉めっきりにした。
 日中、外に出かけるときに恐る恐る曲がり角に目をやったがそい
つはいなかった。
 夜は怖いので上からも下からも確認を試みていない。
 寝るときも電気をつけたまま寝ている。
 幽霊は光のあるところには来れないっていうだろ。知らんけど。

「見えていたでしョウ」

 夜中にそんな声が聞こえた気がして目が覚めた。
 玄関からか窓の外からかは分からない。
 寝ているときにそんな声が聞こえた気がして目が覚めたのだ。
 もちろん夢の中での出来事だろう。冷静に考えればそうでなけれ
ばいけない。
 或いは、幻聴かもしれない。
 しばらく寝れなかった。

 昼間、気休めだと思いながら、窓の外と玄関に盛り塩をした。
 細かい形式はおざなりだったが、しないよりは良いだろう。

 ある夜勇気を出して窓の外を見た。
 誰もいなかった。
 それからは一度も見なくなった。
 寝不足は治らなかったが、見えなくなって良かった。
 よかった、ヨカッタ。
 ヨカタ。


(219)2020.8.14

$ 隣人のひきこもりが死んだ $

 俺が住んでいるアパートで隣人が死んだ。
 自殺だそうだ。

 そいつはおそらく働いておらず、部屋から出ているところをめっ
たに見たこともない。
 ただ、最近になって廊下で部屋の前を通り過ぎるときに曇りガラ
ス越しに女の人影が見えたので、彼女がいたのだと思う。
 なんで働きもしないニートに彼女なんかできるんだよ、と、妬ま
しいを通り過ぎて怒りさえ覚えていた。
 だから、自殺したと聞いてもあまり気の毒に思わなかった。

 そういえば、
 人が死んだ後の部屋は事故物件になって家賃が安くなると言われ
ているが、横の部屋でも嫌な思いをするんだし、俺の部屋も安くし
てよと思うのだが、なんとかならないかな。
 ああそうだ、今から隣に引っ越せばいいのか。どうせほとんど同
じように嫌な思いをするのなら家賃が安い方がいい。
 部屋の作りも全く同じだし、起きている時間のほとんどは仕事で
部屋にいない。毎日ほぼ寝に帰るだけの空間なので別にかまわない
な。
 そもそも、人はいつか死ぬのだし、一人暮らしの物件で前の住人
が死ぬなんてことは必ずある話だ。
 早いうちに大家に連絡をとってみよう。

 いい考えを思いついた俺はコンビニにビールを買いに行くことに
した。

 途中、色白の女とすれ違った。


(212)2022.9.6

$ 二階の住人が全滅 $

 ワシはアパートの管理人をしている。
 退職金をはたいて購入した小さなアパートだが、なんとか生活が
できる程度の家賃収入があった。
 これで老後は安泰だ。
 結婚もしていない独り身には金がすべでだからな。

 しかし、それも去年までの話だった。
 二階の住人が全員死滅した。
 最初は一人暮らしの若者が、その次は隣人の工場労働者が、その
次は反対側の隣人が、というように、次々と死んでいった。
 しばらくは、事故物件ブームもあり、家賃を安くしたら新しい入
居人に困ることは無かったが、本当に死んでしまう事件が連発する
ので次第に人が来なくなった。
 一階は元々住んでいる老人たちで占めており、こちらは平和なも
のであった。限られた家賃収入源なので末永く元気でいてほしい。
 彼らまで死滅したら、完全なる祟りのアパートだ。
 収入が無くなってワシまで首をくくらなくてはならなくなる。

 今日は年一回の総合点検だ。
 憂鬱な気持ちでアパートの様子を見に行く。

「な、なんだ、あれは」

 アパートの周りに白い女が行列をなしてうろついている。
 階段の上に、二階の廊下に、部屋の窓から見える内側に、ゆらゆ
らとフラつきながら漂っている。
 そう、歩いているというより、漂っているという表現がしっくり
くる、そんな足取りだった。

 離れた場所から唖然として立ち尽くしていると、女たちは徐々に
その場から離れていった。
 遠ざかるように。

 つかの間固まっていたが、一階の住人は大丈夫なのか、中は荒ら
されていないのか、確かめるためにアパートに近づいて行った。
 管理人としての責任感もあったが、それは杖でしかなく、今見た
ものがこの世の者ではない等ということはない、としておかないと
心がまともでいられないための支えが必要だったというのが本音だ。

「すみません、田中さん、田中さんはおられますか」

 一番手前の部屋の呼び鈴を押して声をかけた。

「はいはい、ああ、大家さん、なんでしょうか」

 老人が表に出てきた。何事もなかったかのように。

「い、いえ、あの、今日はアパートの点検のために来たのですが、
 えっと、え、最近、何か変わったことはありませんでしたか」

「はあ、新しい入居者が次々とお亡くなりになりますが、それ以上
 の変わったことなんか、そうそうありゃしませんよ」

 冗談交じりの洒落にならない事実を返されたが、今はそれがホッ
とする。
 現実的な会話だからだ。

「そ、そうですか、それじゃあ、あの、ごきげんよう」

「おつかれさま」

 その後、他の住人にも声をかけて回ったが、特筆すべきことは何
もなかった。

 だがしかし、それ以降も、稀に来る二階の入居希望者は住人とな
って自殺することは後を絶たなかった。
 原因も何も分からない。
 あの女たちのことも、何も、調べようがない。




1つ戻る 始めに戻る